hosizoraxの闘病日記

急性骨髄性白血病の記録とか今の日々の雑感とか

4月になると思い出すこと

この時期になると思い出すのは、移植後に血液内科の病棟に戻ったこと。

3月に移植したから3月いっぱいは移植病棟っていうか移植の部屋にずっといたから。

看護師さんもみんな親切だったけど、とにかく血液内科の病室に移りたかった。

 

シャワーでも疲れてしまって、とにかくダルくて仕方なかった。

でもこの病棟に戻れたことが嬉しくて、新緑もだんだん見え始めて窓の外の景色を眺めてた。

 

GVHDがどこに出るか分からないからお医者さまは注意深く様子を見てたと思う。

 

ちょこっと皮膚にポツポツが出て、皮膚科の先生方がゾロゾロ来て「あーこれはもしかしてGVHDかも…ちょっと取りますよー」って言ったのに結構痛かったのは今ではいい思い出。ちょっとって言ったじゃん!確かに面積はちょっとだけども!!!痛いなら痛いって言って???麻酔もなしで(多分)皮膚切ったよね???

その跡もしばらく残ってたけど2年半くらいで消えた。

 

体力回復のためのリハビリの先生も病室まで来てくれて足の運動とか、ちょっと慣れてきたら点滴ガラガラして病棟をぐるっと回るのもしてくれた。

そもそも普通病棟だし病室から出ていいんだ!!!??ってすごく新鮮だった。

最初入院した時はセミクリーンルームでなかなか病室から出られなかったからさ。

 

今では新緑の中スニーカー履いてお外を散歩できてるよ。

移植以来3年以上ぶりの電車

流れで今月末、3年以上ぶりに電車乗ってホテルに一泊することになった。

しかも電車移動は一人。階段とかまだ危ないのでエスカレーターかエレベーター探すことになるな。

 

移植前というか病気前は月に2回以上は電車乗ってたし早足もできたけど。

前はカラカラに荷物入れて持てたけど、今回はリュックかなぁ。靴はどうしようかなぁ。

 

緊張するなぁ。

 

時間に余裕もってゆっくり怪我しないように行くしかないな。

 

不調を訴えるとか愚痴を言うのが下手

まさにこの記事を書けなかった原因。

 

自分はとても不調を伝えるのが下手。我慢しちゃう。

どうせ言ってもわからないだろうと思って家族にもあんまり不調を伝えられない。お医者様に行くのはギリギリまで我慢してから。

 

なので入院中もその後もだるいとか言えなかったしそもそも病気なんだからだるいのは当たり前・・・という感覚だった。

 

入院中も看護師さんに何度も我慢しなくていいんですよ、とか一人で抱え込まないでね、とか言われて。

我慢することが多い病人だし入院生活だから少しでも快適にね、って言われて「そうか、今我慢してるのか・・・?」と考えてしまう始末。

 

人のことなら具合悪いの聞き入れるし看病もするし愚痴もオッケーなんだけど、自分では言えない・・・というこの性質が入院とか闘病の(多分)妨げになっていたと思う。

 

なのでちょっとは愚痴を言うとか不調を訴えるとか普段からしておいた方がいいな、と思った次第。

最初は玄関前を歩くだけ

退院してから体力つけたいと思ったけど運動の習慣はないし、どうしようかな、と思って玄関前をちょっと歩いた。

 

今マンション暮らしなんだけど、家の前の玄関ドアからエレベーターまでの数十メートル。

 

そこをよく歩いたなあ。何ヶ月も。

 

エレベーター行くまでが冒険だったなあ。

勇気をもらった数十秒

今でも忘れられない。

 

移植後、いつもの病棟に戻ってきたはいいけどしんどくて寝てるしかできなくて。

 

コロナ全盛期だったこともあって病院全体が面会謝絶。

しんどい時にはありがたい個室だったけど、喋るのが不自由な上に決まったお医者様とか看護師さんとかリハビリの先生しかいなくて。

 

そんな時、お洗濯物を届けてくれた方が珍しく話しかけてくれたんだ。

しんどくてベッドでゴロゴロしてる私に。

 

「辛いですよね。しんどいですよね。でもきっと大丈夫になりますから。・・・あの、私も移植したんです。10年前くらいに。当時は辛かったけど、今ではこんな風にお仕事できるようになりましたから。頑張って!・・・すみません、普通は患者さんとお話ししないんですけど、しんどいのが分かって、同じ病気かもと思って・・・。」

 

とだけ言って病室を出ていったんだ。恐らく数十秒のお話し。

 

でもこのお話がとてもとても自分を勇気づけてくれたの。

そうか、あんな風に元気になれるのか、って見せてもらえて。ありがたかった。私も頑張ろうって思えたんだ。

 

あの方にお礼を言いたいけどお名前もわからず・・・・せめて今ここでお礼を言わせてほしい。

 

本当にありがとう。言葉にならないくらい驚いたしその姿を見せてくれたこと、心から感謝しています。お陰様でめっちゃ勇気が出て力が湧いてきて頑張れました。声をかけてくれるのもきっとためらいもあったと思う。でもあのタイミングでこの話が聞けたこと、私にとってはベストでした。

あなたに体いっぱいの幸福が降り注ぎますように。

今は退院してお家で過ごせています。

闘病の大まかな流れ

すごく大まかな流れ。

 

2020年10月 熱が下がらずだるさも増してきたので受診。急性骨髄性白血病と診断される。設備のある病院に回されて即入院。セミクリーンルーム

 

入院の翌日から抗がん剤の点滴。今思うとこれが地固め療法の1回目。

 

入院中の11月半ばで久しぶりの平熱。多分10月には熱あったから1ヶ月半ぶりの平熱。平熱ってこんなラクだったんだーーーという体験。

 

11月17日にはセミクリーンルームの外の廊下(そこも限りなくクリーン。ドアがあって普通の人は入ってこられない。一般病棟には行けない。)をご家族が来た時には一緒に歩いていいですよ、と言われた。その後何日かして始めてクリーンルームの外に出てみた。

 

2020年11月30日 一時退院。

2020年12月4日 入院。

 

2020年12月10日 第2クールの抗がん剤点滴。キロサイド大量療法。これが2回目の地固め療法。

 

2020年12月14日 呂律が回らないなど中枢神経への影響が出たためキロサイド大量療法は4日で中止。この後遺症は今でも回復せず喋るのがおぼつかない。固定の症状となる。

 

この喋りが不自由になったのはすごく嫌なことだったんだけど、看護師さんが「お薬がちゃんと脳まで届いて悪い細胞に効いたってことですよ!」と言ってくれて大変ありがたい。嬉しい。

 

この頃移植の話が出る。自分の白血病は化学療法が効きにくく、また再発もしやすいので移植を勧められる。

すごく怖いよ。移植って。だって自分の免疫を限りなく0にして他の誰かの細胞が増えるのを待つしかないなんて・・・。このまま死んだ方がいいよ・・・。

移植コーデイネーターさんが話し始める前に嘔吐してしまって帰ってもらったっけ・・・。ごめんね、すごく親身になってくれていたのに・・・拒否反応がでてしまった・・・・。

 

これだけ移植に否定的だった自分(ほぼ移植はしないつもりだった。最後くらい我儘言わせてよ・・っていうモード)に考えさせてくれたのは2人の人のおかげ。

 

1人は担当の中にいた女医さん。話を聞いてくれた上でこのままいけば余命1年ないことを教えてくれた。で、移植は最初の治療の数倍くらい、辛いだけだって。自分は最初の治療の数十倍辛くて苦しいかとおもってたからさ。

もう1人は妹。何故かLINEで「いつでも移植するからね。」と言ってくれた。普段あまりLINEしないのに、突然きたLINEがこの内容。

実際妹に移植してもらうことになるんだけど、自分からは言い出せなかったからすごくびっくりしてありがたかった。このLINEが移植を決断させてくれた。

 

妹の他にも大勢、移植を申し出てくださった人がいたこと、後で聞いて涙涙・・・感謝しかなかった。

 

2020年12月30日 一時退院。

 

通院はしてたけど、2021年1月いっぱいは自宅で過ごせることになり大変幸せ。

 

2021年2月24日 入院。

 

2021年3月3日 病棟移る。完全無菌室?なのかな?移植前の抗がん剤を6日間。一日おいて移植。

 

2021年3月11日 移植。11:30から1時間くらい。点滴で。

 

2021年3月30日ころ この頃の3日間で生着確認。

 

2021年4月1日 血液内科のある病棟に戻る。今度はセミクリーンでなく普通の部屋。すごい!セミクリーンじゃなくていいんだ???

 

2021年5月2日 ドナーの骨髄に入れ替わってるらしいと聞く。移植は成功みたい!

 

2021年6月26日 退院。

 

闘病中のだるさとか長い食事制限とか通院とか書くことはいっぱいあるけど大まかな流れはこんな感じ。